😎 ここでいう、 「認識が対象に従う」が 「はじめにモノが存在すると捉え、それを認識する」であり、 「対象のほうがわれわれの認識に従う」ということが 「認識するからモノが存在すると捉える」ということになります。
6コペルニクス的転回(こぺるにくすてき てんかい)の 意味がわからなかったので調べたところ、 現在は 「発想や 考えを逆転して根本から変えること、 また、変えたことによって新たな道が見出されること」 という意味でした。 雨宮自身の言葉を引用する。
🤔 改訂版にはフランクル自身による語句の加筆訂正がある。 従来の認識の捉え方が、認識する主観が外界に実在する対象に一致するという伝統多岐な立場を覆し、対象が主観の認識の枠組みに一致すると説いた。 地動説によって、合点がいくことで 新たな道が開拓されることもたくさんあったと思います。
16118• これによって、「主観」は「人間の認識」に位置することになり、「人間があらかじめ持っている形式(時間と空間、そしてカテゴリー認識)によって立ち現れる現象」を「客観」に位置付けました。
…と考えること」という感じでしょうか。 地動説においては、 天動説の見方とは正反対に、人間が住んでいる地球の方が水星や金星、火星や木星といった ほかの天体と同列に太陽の周りを回っているということが明らかにされることによって、 天文学における 地球中心主義あるいは 人間中心主義的な世界観が真っ向から否定されていくことになるのですが、 つまり、そういった意味では、 こうした 天文学を中心とする 科学史の文脈においては、 コペルニクス的転回あるいは 英語では Copernican Revolution (コペルニカン・レボリューション、コペルニクス革命)とも呼ばれるこの言葉は、 近代ヨーロッパにおける科学革命の端緒を開くことになった 16 世紀の天文学者である コペルニクスにおける 天動説から地動説の転回、 すなわち、 天文学や宇宙論における地球を中心とする 人間中心主義的な主観的世界観から 宇宙全体を俯瞰する客観的世界観への転換のあり方のことを指してこうした表現が用いられることになると考えられることになるのです。
☯ 学校は小型の社会、胎芽的な社会となることになる。 人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。
10したがって、「Leben」が私にたえず問いを立てかけてくるとは、一方においては「人生」が私に問いを立てかけてくることであるが、同時に他方においては、「生ける神」が、私にたえず問いを立てかけてくるということだと解釈することができる。 その状況にひそんでいる真の「意味」を発見し、それに全力で応えていくことである。
♻ このような視点で再度『夜と霧』の該当箇所を読み直してみると、そこにおいてもまた、この二つは明確に区別されていることが分かるだろう。 ただ、 もともとこの言葉は 18~19世紀のプロイセン王国の哲学者、 イマヌエル・カントが 自らの『認識論』を「コペルニクス的転回」と表現したのが一番初めです。 しかしながら、当該のパラグラフの全体を読んでみれば、そこに書かれていることの主筋は、人生が私にひたすら迫ってくる問いかけがまず先にあり、それに対して私がたえず応答責任を果たしていくという内容である。
1山田はさらにフランクルの思想を、東西の様々な宗教哲学と結びつけ、人間が大きな「いのち」の働きによって生かされているという根源的事実のことをフランクルは説いているのだとする。 感謝は一番の原動力です。
それは、ドイツの哲学者であるカントです。
ところで、実は、『夜と霧』の当該のパラグラフは、シロニスのように読むのが素直なのではないかと私は考えているのである。
🤝 山田の著書にはフランクルの前期から後期にわたる思想が分かりやすく概観されており、とくに『生きる意味への問い』には他の思想家たちとの共通性について多くの示唆が含まれている。
19旧訳で「生命」「人生」、新訳で「生きること」となっているのはすべて「Leben」である。 この意味での生はまた〈いのち〉と言い換えることもできる。
🔥 カントはこの発見を「コペルニクス的転回」と名付けたわけですね。 カントはなにがあっても他律より自律を重んじるのです。 つまり、普通、「リンゴは、赤い、丸い…」というように、私たちの「認識」は、それ自身で存在している対象の、ありのまま、そのままの姿に従うべきだと考えられていますよね?しかし、カントは、リンゴの「赤い」「丸い」などといった認識は、私たちの経験的知識によって操作されているものに過ぎない。
18フランクルの言う「人生からの問い」は、いかなる時、いかなる人のもとにも必ず届けられています。 そしてそのようにして問いを問われた者の上へと、人生は毎日毎時、問いを立てかけてくるのである。